セント・バレンタイン



――ばれん、たいん?――
すずかの答えに、私は聞きなれない単語をオウム返しに口にしていた。


事の始まりは、朝の登校時間にさかのぼる。
いつも通りの通学バス、いつも通りの聖祥大付属小学校に続く通学路。
しかし、いつもとは何かが違っていた。下駄箱の前で挨拶した子も、廊下ですれ違った子も、なんだかみんなそわそわしてるような…。
 そんな落ち着かない雰囲気が気になって、朝のHRが終わった後、私はいつもの仲良しメンバーに聞いてみたのだった。


――なんだかみんなそわそわしてるけど、今日は何かあったかな?――

――ああ、今日はバレンタインだね――

――…ばれん、たいん?――

――あー、フェイトちゃんは知らへんのかな?――

――そっか、フェイトちゃんはミッドチルダ出身だもんね――

――うん、名前が違うだけで、似た様な風習はあるかもだけど――

――バレンタインゆうのはな、まあ簡単に説明すると好きな子にチョコを贈る日、やね――

――え、好きな子に…?――

――まあその世間一般に浸透してる認識も、お菓子会社の陰謀なんだけどねー――

――アリサちゃん、そんな身も蓋もない…――

――にゃはは…――

――…好きな、人に…――


みんなと、とりとめのない話で盛り上がる。そうしながら、なぜか私はなのはから目が離せずにいた。
みんなと楽しそうに話しているなのはの横顔。その横顔を見ていて、ふと、頭の中ではやてのさっきの言葉が反芻する。

――好きな子に、チョコを贈る日――

…なのはは、よろこんでくれるのかな…けど、


その日の学校の帰り道。なのはとフェイトは二人きりで家への帰路についていた。
はやては時空管理局に用事があるということで早退。すずかとアリサはバイオリンのお稽古があるということで、先ほど自家用車で送迎されていった。
「アリサとすずかは凄いね、いろんなお稽古をやってて」
「本当にねー。あ、こんど発表会があるらしいし、その時は二人の晴れ舞台を聴きに行かなきゃ、だね」
「うん、そうだね」
 そう話に花を咲かせながら、二人で帰る海沿いの道。少し傾いた日が海に煌めいて、水面をうららかに光らせる。
そんな綺麗な景色を観ながら、フェイトは今朝の事をふと考えていた。
「…?  フェイトちゃん?」
 だからだろうか、途中からなのはの話があまり耳に入らず、あいまいな受け答えになってしまっていた。
はっと気付いて目線を戻すとそこには、不思議そうにフェイトの顔を覗くなのはの顔が視界を埋め尽くしていた。
「どうしたの?」
「ご、ごめん、なのは! ちょっと考え事してて、その…!」
 急に目の前に顔があったからか、それとも他の理由か、フェイトはしどろもどろになりながら慌てふためく。
その光景が余りにも可笑しくて、なのはは思わず笑い出してしまっていた。
「え、え? なのは…? どうしたの?」
「あはは…、だって、フェイトちゃんのあわてっぷりがすごくて、つい…」
「あ…」
 そう聞いて、自分の取り乱し具合がどれ程ひどかったのかを認識したフェイトは、思わず顔を赤らめてしまう。
それでもまだ笑い続けているなのはに、フェイトは抗議の声を漏らした。
「でもなのは、だからって笑いすぎだよ? そんなに笑わなくっても…」
「にゃはは…ごめんごめん、いつものフェイトちゃんとまた違う一面が見られたから、つい嬉しくて…。ごめんね?」
 そんな風に少し困った笑顔で笑うなのはの顔に、つい目が離せなくなってしまう。
…そんな謝り方、ずるいよなのは…、そう心の中で呟きながらも口に出せることはなく、フェイトは返す言葉がなくなってしまっていた。


「ね、フェイトちゃん。なにをそんなに考えてたの?」
ひとしきり笑って落ち着いたのか、なのははそうフェイトに問いかけた。
「あ、うん。今朝のHRが終わった後の話が、どうしても気になって」
「今朝の…、あ、バレンタインのお話?」
「うん…、」
 バレンタインの事を話した時。確かあの時は…。
「ねえ、フェイトちゃん…もしかして、だれかチョコを渡したい人が、いたりするのかな?」
 なんとなく事の次第を察知したなのはは、フェイトにそう聴いてみた。内容が内容なだけに、あまり聴くのも、なんというか悪い様な気はした。
けれど…それでもフェイトちゃんの助けになれるなら、という気持ちが勝っていたからだ。
それに、その事はなのはにとっても、気にならないと言えば嘘になることだったから。
 対してフェイトは、なのはの口からその言葉を聴かされて、どう答えればいいのか迷ってしまっていた。

――確かに、なのはの言うとおりだ。でも、その渡したい相手は…――

 たった数秒間の沈黙。けれど、二人にとってそれは、何倍にも感じられたかもしれない。
「…うん、私、チョコを渡したい人が、いるんだ」
やがて、フェイトは意を決したかのように静かに話し始めた。
「なのは、実はね…。その、私がチョコをあげたいのは、なのはになんだ」
「え…?」
 なのはは、ほんの少し驚いたようにフェイトを見つめた。しかしフェイトはそれに気付かず、言葉を続ける。
「私、バレンタインのことを聴いた時…好きな人にチョコを贈る日だって聴いた時、なのはから目が離せなくなってたんだ。私が好きなのは、その、なのはだから…」
 西の空に傾きかけている太陽の光が、二人と海鳴の街を薄いオレンジ色に染めていく。
太陽を背に向けているなのはの顔には影が掛っていて、どんな表情をしているのかフェイトの方からはよく見えない。それでも、フェイトは言葉を続けた。
「でも私、今日までバレンタインの事は全然知らなくて、だから、なのはに渡したいチョコも用意できていないんだ…」
 そこまで言い切ったフェイトは、落ち着かないのか胸の前に両手をあてながら、なのはの方を窺った。

「…ねえ、フェイトちゃん。少し付き合ってほしい所があるんだけれど、良いかな?」

なのはは、優しい声音でフェイトにそう問いかけた。
フェイトからは逆光で、相変わらずなのはの表情ははっきりと読み取れない。しかし、仄かに見える顔と先ほどの声からは、少なくとも険しい雰囲気はなかった。
それで少し安心したフェイトだったが、予想だにしないなのはからの申し出に、少しだけ戸惑いを感じたのもまた事実だった。
「え…? うん、それは良いけれど…」
「ありがとう、じゃあ、」
フェイトの了承を得たなのはは、嬉しそうな声で応えて、そして…。
「え、えっ? な、なのは?」
「行こう、フェイトちゃんっ」
 フェイトに駆け寄るとその胸にあてていた手を取って、オレンジ色に照らし出された海沿いの下り坂を駆け出していった。



 ――あれ、ここは…――


 なのはに手を取られるままに走り出し、フェイトが辿り着いた場所。それは、フェイトにとって見覚えのある場所だった。
「ふう、着いたー。ごめんね、急に走り出しちゃって」

  ――いや、見覚えのある場所なんてものじゃない。だってここは、この場所は――

「ううん、私は平気だよ。でもなんで、こんなに急いだの?」
「だって、もう日も傾き始めてたし、急がないとここから見える景色をフェイトちゃんに観せられないと思って…」
 なのははそう言って、急いだのはわたしのわがままだったからと、少しばつが悪そうにえへへと笑った。
 そこは、海鳴臨海公園の中にある橋の上だった。フェイトにとっては忘れるはずもない、なのはと友達になれた場所。
なのはが、たくさんの初めてをくれた場所…。
 そんな事を考えながら、フェイトはなのはが観せたいと言った景色を眺めた。
日は先ほどよりも沈み、濃いオレンジ色の世界が眼前に広がっている。
うっすらと見える薄い雲を抱いた空はどこまでも広く、和やかに凪ぐ海は黄金色にきらきらと輝き、風の音と潮騒の音は、まるで全身を優しく包み込んでいくようで…。
「…すごい、ここって、こんなに綺麗な所だったんだ…」
「…うん、フェイトちゃんを見送った日はお昼くらいの時間だったから青空だったけれど、この時間帯はまた違った表情を見せてくれるんだ」
 いつもの広い青空も好きだけれど、この緩やかな時間も好きなんだ、となのははフェイトに告げた。
その笑顔はすごく穏やかで、さっきの表情とはまた違った魅力があって。
「…ふふっ」
 フェイトは、なのはのそんな表情を見ながらふと気付いて、自然と笑っていた。
「なんだか今日は、いつもと同じはずなのにいつもと違うものが、たくさん見られた気がするよ」
「いつもと…違うもの?」
「うん、ここから見える風景とか、なのはの色んな一面とか…ね」
「それを言うなら、フェイトちゃんも、だよ?」
 そう言った側も言われた側も、少し頬を赤らめて。そんなやりとりをしながら、二人はどちらからともなく、静かに笑いあっていた。


「なのは、今日はありがとう。こんなに素敵な景色を教えてくれて」
 もう少しこうしていたいけれど…。でもそろそろ帰らないと、お家の人たちも心配するよね。とフェイトは自制心を働かせる。
――日も暮れる頃だからそろそろ帰ろうか――、そう言おうとした矢先、なのははフェイトの言葉を遮った。
「あ、フェイトちゃん、ごめんね。もう少しだけ付き合ってくれないかな?」
 なのはは、少し慌てたようにそう言いながら鞄の中をごそごそと探り始める。
「…?」
 フェイトはどうしたのだろう、と思いつつもなのはの頼みを断れる訳もなく、ただなのはの行動を見ていた。
そしてなのはは目的の物を見つけたらしく…。
「はいっ、フェイトちゃん♪」
 そう言いながら、満面の笑顔でそれをフェイトに差し出した。
「え…これって…?」
 フェイトに差し出された物。それは、ピンクと白のストライプ柄の包装に黄色いリボンが綺麗に掛けられた、ハート形のチョコレートだった。
「うん、バレンタインのプレゼント。お母さんに教えてもらいながら作ったんだ」
 そう言うなのはは少し恥ずかしそうにしながら、照れたように笑った。
 ――なのはの、プレゼント…手作り…なのはの…――
 対するフェイトは、なのはからプレゼントを貰えたことで思考が軽くショートし始めていた。さっきから同じ単語が頭の中でぐるぐる回って離れない。
「え、ええと、なのは、これって、その…」
 なのはに渡したい、という事しか考えておらず、もとより貰うという選択肢がなかったフェイトに対して、このサプライズは大きなショックになったようだ。勿論良い意味で。
「わたしね…フェイトちゃんが、バレンタインの事で悩んでた理由が分かった時、とっても嬉しかったんだ…ああ、フェイトちゃんもわたしの事を想っててくれてたんだ、って解って」
 そんな落ち着きのないフェイトに、なのはは顔を赤らめながらそう応えた。
「だから…だからね、フェイトちゃんがチョコを用意できなかったのなら、わたしの方から渡すよ…好きっていう、気持ちと一緒に」
 なのははそう言うと、フェイトの瞳をまっすぐに見つめた。ただ自分の想いを知ってほしくて、その視線を逸らすことなく。
だけれど、その紅い瞳は吸い込まれそうなくらい深く、ずっと見ていると総てが曖昧になっていく様な錯覚に襲われそうで…。
「それでその、初めてフェイトちゃんにチョコを渡すのは、私たちが初めて想いを伝えあった場所で、って決めてて…。」
結局は多少の恥じらいもあり、目線が少し泳ぎながらもたどたどしく、そう応えるのが精いっぱいになっていた。
「それでね、フェイトちゃん…、その、なのはの気持ち、受け取ってくれる、かな…?」
 顔を真っ赤にして、語尾が弱くなりながらもそう言いきった。そんななのはにフェイトは駆け寄り…。

「もちろんだよ、なのは…。本当に、嬉しい」
 しっかりとなのはのチョコを手に取り、そのままなのはを優しく抱きしめた。そのままフェイトはなのはに語りかける。
「やっぱり、なのははすごいね…。いつも、私の知らない喜びをくれる。いつも、こんなにも私の心を動かしてくれる…」
「ふぇ、いとちゃん…」
 フェイトの腕の中で、強く抱き返してくるなのは。フェイトはそれに応える様に、ほんの少しだけ包んだ腕に力を籠めた。
「うん、大好きだよ…なのは」
 フェイトはそのまま、なのはの気が済むまでこうしていようと思った。
まだ少し肌寒い季節だけれど、こうしていれば暖かいから…と。人との触れ合いで得られる暖かさを改めて教えてくれた、この少女と、もう少しこうしていたいから、と。
日は既に傾いて、道沿いの街灯にも灯りがぽつりぽつりと燈り始めている。
帰りが遅くなったら、母さん達に怒られるかな…。でも、たまには自分の我儘を徹してみるのも良いかもしれない。
そんな事を、ぼんやりと考えながら。



*ブラウザの『戻る』でお戻りください